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最高裁判所第一小法廷 昭和34年(あ)2148号 判決 1962年5月19日

主文

原判決を破棄する。

本件を広島高等裁判所に差し戻す。

理由

広島高等検察庁検事長松本武裕の上告理由序説及び同第一点ないし第九点について。

所論は縷々論説するが、帰するところ事実誤認、単なる訴訟法違反の主張を出でないものであって、いずれも、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。しかし、当裁判所は同四一一条の職権を発動して、本事案を調査し、原判決の当否を検討することとする。

第一、原判決は冒頭において、本件有罪、無罪を解決するの鍵は、一にかかって吉岡の供述の信憑力いかんにあると云っても敢えて過言でないと明言している。そして、原判決はその供述の虚言に満ちていることを縷々説明しているのである。当初の犯行否認から、単独犯行説、六人共犯説、五人共犯説、二人共犯説、更に再転して五人共犯説、二人共犯説、五人共犯説、二人共犯説と変転し、最後に五人共犯を固執するに至るまでの経過を具さに検討し、このように変転する吉岡の心境動機、更にその各場合における客観的状況までも詳しく詮索し、次いで吉岡供述の信憑力の具体的検討と題し阿藤、久永、稲田、松崎の各供述との関連において吉岡の供述を分析解明し、以てその虚言性(原判決によれば、それは彼の生れながらの性格的のものであるという)を暴露し、延いて以て吉岡単独犯行説の結論に資しているのである。成る程、吉岡の逮捕以来吉岡の供述は四転五転殆んど底止するところを知らないほどの有様であり、その中には虚言に満ちている部分のあることは、原判決の云うとおりである。例えば、六人共犯説、二人共犯説の如きは正にその最たるものであり、また五人共犯説を前提とする供述の中においても、部分的にデタラメのあることは原判決の正当に判示するところである。しかし、ここで裁判官として大事なことは幾変遷した吉岡の供述の中にも、何か真実に触れるものがないであろうかと疑ってみることである。例えば、二人共犯説の如きは、主として弁護人に対する関係において、述べられているのであるが、吉岡はこの供述の中で途方もない人物を拉し来って共犯者だと述べているのである、この供述は阿藤、久永、松崎、稲田らの弁護人に対する面目や義理からその体裁を繕ろわんとするの余りデタラメを云っているものであること、そして、このような供述こそはとりも直さず、自分の他に犯行者のあることを暗示し、端的に単独犯行説に疑惑を抱かしむる点であることは右供述に関する部分を熟読吟味すれば、誰しも容易に気付き得るところである。ところが、この点について原判決は、「(前略)、しかし当公廷における証人吉岡晃の証言及び同人の栗本検事に対する一回ないし一四回調書によれば、金山某、金村某は虚無人で、林某なる者は死亡していたこと、従って二人共犯の各自供の虚構であることを認めるに十分であって、二人共犯を前提とする供述が信用に値しないこと勿論であるが、被告人ら四名が本件に関係ないと供述したところに右自供は意義を有するのである。吉岡の前掲証言中一人でやったと云うては通らんから、なる供述部分は当公廷で初めて証言したものではなく、他にも全く同趣旨の供述記載があるのであって、これらの証言及び供述記載によれば、吉岡が曽って平生警察署において単独犯行を自供した際取調警察官がこれを毫も信用しなかったため、この経験に懲り、単独犯行の自供では到底他人を納得さすことができないものと考え、一面単独犯行を自供すれば、自己に対する責任又は非難が加重されることを虞れ、金山外二名の虚無人又は死者の名前を点々と掲げて二人共犯の自供をなしたものと推察される、かような観点からすれば、二人共犯の自供は益々重要な意味をもつものと云うべく」云々と、云うのである。原判決が嘘だデタラメだと云っている吉岡の供述を、この場合は信用して右のような推察をしているのであり、しかも二人共犯説が、被告人ら四名において本件に関係ないと供述したところに右自供は意義を有するものであると云うに至っては、虚言だ虚言だと云っている二人共犯説にどうしてそのような重大な意味をもたせなければならないのか解釈に苦しむものである。原判決は続いて、吉岡は二人共犯の自供をなすに至った動機について、被告人阿藤及び原田香留夫より依頼をうけ且つ原田香留夫、正木等より金品の贈与を受けたためであると証言するのであるが、たとえ、その動機が吉岡の証言するとおりであったとしても、被告人らが本件に関係ないとの供述部分に関する限り、関係証拠を十分に検討した上でないと、軽々に虚偽であるとは断じ難いと云い、吉岡の供述の攻撃に終始しているのである。原判決の吉岡供述を責むることの急なるかくの如くである。しかし、記録を反覆熟読すれば、吉岡供述の中には真実に触れ、これを如実に物語っている部分のあることを到底見遁し得ないのである。弁護人は吉岡は能弁で巧みにデタラメを書くというが、吉岡の物した次の短文は一部に某死刑囚の手記の中の文章を借用した部分もあるが彼の本心を端的に吐露し真実に触れているものがあると認められる。後に添付した吉岡の上申書中に書かれてある、懺悔と悔悟に満ちている部分などについても同じように解し得られるのである。

(中略)

右各供述を熟読して、まず気の付くことは、被告人らはいずれも自己の立場を少しでも有利にすべく隠し立てをしておりながらも、包みきれず徐々に真相に近づきつつある供述をしていることである。その間には一見明瞭な嘘と見られる供述がないことはない。久永の供述にはその傾向が多分にある。また各供述の間には喰い違いもあり、一方の供述にある事実が他方の供述にないとか各供述の確実性を疑わしむるものあることは原判示のとおりであろう。しかし、共犯者の供述は枝葉末節に至るまで符節を合するように合致するものではない、むしろその合致しないところに、誰に教えられたのでもなく、また互にしめし合せているのでもないことがはっきりし、その真実性を認めるの一助となるものである。被告人らの供述の場合においてもその例外ではない。右供述を仔細に検討すれば、吉岡供述と一致する点が多々あり、また各供述の間でも至極微妙な点で一致し、犯行の現場に赴いたものでなければ到底語り得ないことをすらすらと述べていることに気付くであろう。しかも、語るに落ちて稲田は「金を分けるとき阿藤が私達に若し分かって警察へ行っても警察は山をかけるから云わない様にせい。証拠があがらねばいいのである。検察庁や裁判所に行けば無罪になるから、一日何んぼかで金が貰えるからというようなことを皆のものに云いました」云々といっているのである。これなど戦後の新しい裁判所の事情に何程か通じているものの言であり、教えられたり、そそのかされたりして出てくる発言とは到底認められない。むしろそれは阿藤が吉岡に対しテレンポレンの事を云うて検察庁や裁判所を胡魔化さうという趣旨のことを云ったという吉岡の供述と一脈相通ずるところのものがあるものと考えるのである。以上を要するに被告人らの右供述の推移は新鮮で生々しく、決して大筋を外れてはおらず、彼らが当夜参々伍々八海橋附近に集合し、吉岡と同行して兇行現場に赴き、兇行に及んだことは吉岡の供述と相俟って容易に看取できるものと認められるのである。ところで原審は被告人らの右供述は警察当局の拷問によるもので、任意性を欠き証拠価値のない疑濃厚であると云うのである。そしてその説明に数頁を割いているのである。ここで銘記して貰い度いことは、最高裁判所の差戻判決が拷問強制、欺罔等により任意性を欠くものとは認められないと判示し、しかも、原審が被告人らの右供述が任意性を欠くと判断した資料を大体斟酌しての判断なのである。勿論、右差戻判決の判断は原審をそのまま拘束するものではないであろう。しかし差戻判決は任意性の点を原判決破棄の理由とはしていないのである。しからば下級裁判所としては、最高裁判所の右判断を一応尊重することこそそのあるべき態度ではなかろうか。その点はともあれ、原審は被告人らの犯行に関する供述はこれを冗々しいまでの説明で信憑できないと云っていながら、事任意性の点になると物的証拠や証言を示してはいるが、被告人らの訴言を何んの疑をも差し挾まず容れているのである。その何の故なるやを解するに苦しむ。原判決は次の如く云うのである。「そこで原審並びに当審で取り調べた証拠によって検討をする。証人布重一雄の証言当審証人丸茂忍、同久永サイ子の各証言昭和二六年一月二九日平生署において係官が撮影した久永の写真及びその上衣を綜合すれば、久永は一月二八日平生警察署に出頭し、同署に留置されている間に着用していた上衣が何らかの原因により破損したので、二月三日岩国少年刑務所に回される前に監視に当っていた布重一雄に依頼し、右上衣を宅下げした事実を認めることができる。この事実に久永の供述を参照すると、同人の供述するとおりの拷問があったとは認め難いにしても、少くとも刑事の取調過程において上衣が破損したという事実は否定し得ないように思われる。次に証人丸茂忍及当審証人金玉げんの証言によれば、阿藤は勾留されていた岩国少年刑務所で担当弁護人丸茂忍に拷問の事実を訴え、且つそのため鼻血が出て着用していた上衣に血がついていた現物を示したこと、同弁護人は阿藤より示された上衣に付着しているものが血痕であると判断し、原審一回公判で右上衣に付着している血痕が阿藤のものであることの鑑定を請求したが採用されなかったものであること及びその頃阿藤は同房者金玉げんにも右と略同様のことを洩したことを各々認め得る。以上の事実に阿藤の供述を綜合すると、阿藤は警官より取り調べを受ける過程において鼻血を出して、それが着用していた上衣に付着したものと推定せざるを得ない」という。(この場合にも阿藤の供述はそのまま信用しているのであるが、それはそれとしてこのような推論の方法があるであろうか。)続いて原判決は「以上説示した事柄に当審証人笹木春一、同丸茂忍の各証言、原審証人佐藤一夫の証言を綜合し、更に被告人らの各供述及びこれらの供述と勾留関係記録とによって認められる、各被告人が一度犯行を自白しながら、一月三〇日平生署において、検察官の取り調べ及び裁判官の勾留尋問を受けた際、期せずして一様に犯行を否認し冤罪を訴えている事実、しかも被告人らが本件のような重大事犯に関して、関係証拠に抵触すると推測される事柄についても敢えて自己に不利益な供述をなしている事実を参照して考察すれば、被告人らが強調するとおりの拷問があったものとは認め難いにしても、自白調書作成前の刑事等による下調べ段階において、犯行を否認する被告人らに対し何らかの暴行をなし、或は夜間、程度を超えて尋問を継続し睡眠不足に陥らしめる等、有形無形の圧力を加え、これによって被告人らをして心にもなく犯行を自白させた疑いが濃厚である」と断定しているのである。(その根拠の薄弱さ論外である。)そして、原判決は更に一方において「被告人らの自白供述は共同犯行を認めてはいるものの、個々の具体的事実に関しては区々まちまちで統一を欠き、吉岡の供述とも抵触する部分が数多く散見されるから自供調書を作成した担当警察官が自己の推理或は吉岡の自白内容をすべて強引に押しつけたと見ることはできない。さればといって、被告人らが自発的に各自白調書記載のような供述をなしたものと認め難いことは既に述べたとおりである。それではなぜ右のような結果が現れたのであろうか、この点について被告人らは前掲拷問に関する供述に付加し一様に取調官によって強制ないし誘導尋問がなされた旨供述しているのである」と云い、松崎の公判における供述と久永の前上告審に提出した上告趣意書の記載とを引用した上更に「阿藤、稲田の両名は松崎、久永の供述に比較しより一層強力な強制ないし誘導尋問を行われた旨を訴えている。これらの供述ないしその記載を前段で記述した事情に照し合わせると、各被告人が共同犯行を一応自白するまでの段階において一様に強力な圧力が加えられその後の個々の具体的事実に関する取調方法(特に誘導の方法、程度、巧拙等)については担当係官の如何によって個人差があったものと推測できる。次に被告人らの自白調書と吉岡の警察調書とを比較検討してみると、被告人らの供述は相互矛盾し且つ吉岡の供述にも抵触するとは云え、その根幹となる荒筋においては、吉岡の供述に追随したと推測される形跡が顕著であり、一方において吉岡が警察において秘匿し検察官に対し或は原審ではじめて自供した事実については被告人ら四名の各自白調書に片言の記載をも発見できないのである。以上記述したところを綜合すれば、被告人らの自白供述が変転し且相互にくい違い、又一方において吉岡の警察供述とも抵触することは(中略)係官の取調方法特に圧力のかけ具合及び誘導の程度、巧拙に関する個人差、被告人らのこれに対する応接の態度、性格の強弱等がからみあった結果生じた現象と推測できる。そして被告人らの各自白調書が下調べ担当者とは別異な係官によって調査作成されたものであることは、被告人らの供述によってもこれを知るに十分であるが、同時に又該調書作成者による取り調べが、刑事等による前掲不当な下調と殆んど時を接してなされたものであることも証拠上否定し得ないところであるから、このような条件の下に作成された被告人らの自白調書はその任意性について疑問なきを得ないというのである。」その叙述の曖昧にして晦渋なるいったい何を云わんとするか、補捉するにくるしむのであるが、要するところ、独断的説明を合理化すべく苦しい弁明に終始していると思われるのである。しかもその認定たるや自信のない推測の域を一歩も出ていないのである。この程度の叙述では、被告人らの警察での自供が拷問、強制、誘導等によって導き出されたものであるとか或はその疑があるものであるとは到底首肯し得られない。むしろ当審の判断によると、右各供述の推移変遷が、如何にも自然的に発展し、各供述の間の喰い違いも、また吉岡供述との間の不一致も、むしろその供述の自由さを物語りこそすれ、少しも無理を感ぜしめず、もし何らかの圧力が加えられたであろうならばもっと作為的な供述があるであろうに、その形跡が認められないのである。されば、被告人の各供述は原判決の云うように任意性を欠くとかその疑のあるものであるなどとは到底認められないのである。それ故原判決の右説示はその理由において不備であって、是認できない。第五、惣兵衛夫婦の死亡時刻、すなわち兇行時刻は、アリバイの成否を決定する上において、また吉岡供述の信憑性の如何につながる問題としてこれを決定することは本件において重大であることは、原判決指摘のとおりである。原判決は、被害者夫婦の屍体解剖の結果、上野、藤田、香川三鑑定人の鑑定の結果によって胃の内容物から推理した結論に副ってこれを推論しようとする。その態度は不合理とは思わない。原判決は上野鑑定書によれば、惣兵衛夫婦が最終食事をした後死亡するまでの時間を約三時間と推定する旨の記載があり、香川鑑定書によれば、右の時間を三時間ないし四時間と推定する旨の記載あり、直接解剖を担当した藤田鑑定人の鑑定によれば、惣兵衛夫婦は夕食後二時間ないし四時間を経過した頃に殺されたことになり、三者を綜合すれば、三時間の公算が最も多いものと認められるというのである。しかし右三鑑定の受取り方、推論の過程には多大の疑なしとしない。まず、上野鑑定についてであるがその鑑定書には判示のような明快な結論が記載されていない。同鑑定書を仔細に検討すると、同鑑定は結論として早川夫婦の食後死亡までの時間は資料不足のため決定できず、但し、食後死亡までの経過時間は両人とも目覚めている普通の生活様式で大体三時間前後であろうという程度の推定は可能であるというのである。すなわち、右但書の場合だけが、大体三時間前後であろうと推定することが可能だというだけなのである。しかるに、原判決は、本件の場合が右但書のような具体的条件の備っている場合かどうかという点については何ら言及していないので、ただ漫然と右三時間とある点だけを捉えて上野鑑定書には云々の記載ありと云っているのである。同鑑定書を十分に咀嚼していないものというの外はない。上野鑑定書の全文を熟読通覧すれば、同鑑定人は問題の点は結局結論し難しというのであって、これでは本屍体に対する疑問を解明するに足る資料とはなし難いのではないか。次に香川鑑定についてであるが、原判決は香川鑑定書には前述のごとく前示時間を三時間ないし四時間と推定する旨記載されていると判示しているのであるが、その判示も香川鑑定を十分理解しているとは思われない。すなわち、香川鑑定は次の如く云う、屍体の胃内に停滞している食物の種類並びにその消化状況を基準としての死亡時刻の判定は検索が杜撰に流れ易く結果については不確実のそしりを免れ難い。けだし摂取した飲食物の消化器内における運命は諸種の条件によって常に同一の経過を辿るものではないからである。従って摂取した食物の消化管殊に胃内における消化程度又はその他の胃の詳細なる所見を補えたといえどもその摂取後の経過時間並びに摂取時刻の確実なる判定は不可能であるといっても過言ではない。胃の運動は食物の種類、調理の方法、量等によって同一でないのみならず個人の全身体的状態、食後の身体の動静、殊に感情や気分に関するところが多い。このようないろいろな条件によって摂取した食物の胃内の停滞時間は容易に判定し難い処といわざるを得ないと前提した上(中略)、早川夫婦はその死亡前三時間ないし四時間の頃に食事をとったものと推測されると云い、更に、原審における証言としてこの点を補足し、その前提において胃内の消化状況に影響ある諸条件が不明であることを念頭において本件に対処すれば元来正確な経過時間を推測することは困難であると説示しつつ、強いて推測すれば、死亡前三時間ないし四時間の頃と表現し得るであろうと云っているのである。このような鑑定人の判断を原判示のように端的に香川鑑定書には右の時間を三時間ないし四時間と推定する旨記載ありとして重要な事実認定の資料に供し得るであろうか。鑑定資料の杜撰な受取り方と云うの外はない。それにもまして疑問とするのは前示三鑑定人の鑑定の結果の綜合判断である。原判決はいとも簡単に三者の鑑定を綜合すれば三時間の公算が最も多いものと認められると断定しているのである。しかし香川鑑定によると三時間ないし四時間余と言っているのであるから三時間でもあろうが四時間であるかもしれないしまたそれをオーバーしているかもしれないのである。また藤田鑑定によれば老夫婦は夕食後二時間ないし四時間を経過した頃に殺されたというのであるから二時間後に殺されたかもしれずまた四時間後に殺されたやもしれずその蓋然性は結局茫漠としているのである。それを算術の計算のように三時間云々と割り切って了うのは原審独自の想定以外の何ものでもないと思われるのであって、理由不備の違法を免れない。ところで以上の三鑑定人の鑑定を通覧すれば、一見明瞭であるが右各鑑定はいずれも早川夫婦の夕食時刻殊に最終食事時刻を確定し得られるものとしての判断である。右食事時刻が確定されなければ、右鑑定の如きは無価値に帰するものというの外はない。然るに原判決は、食事時刻について当審証人加藤スミ子、同新庄智恵子、同新庄好夫の各証言によれば八海部落では本件発生の日時である一月二四日頃の厳寒時には一般に午後六時頃から七時頃までの間に夕食をとり、特に早川惣兵衛のような瓦製造業者は仕事の性質上早寝早起の傾向があり、従って夕食も一般家庭より多少早目にとることが多いことを認め得べく、又右加藤スミ子の証言によると、一月二四日早川家に手伝いに行った同女が、同日午後五時過同家を辞去しようとした頃ヒサが夕食の仕度にとりかかっていたことを首肯できる。そして、一、二審を通じ何れの当事者からも右認定に反するような主張立証は少しもなされなかったのである。以上認定した事実関係を綜合すれば、早川夫婦は同日午後六時頃から七時頃までの間に夕食をとったものと推認するのが相当であり、むしろ六時頃に近い頃食事をした公算が多いものと考えられると判示している。しかし夕食時刻などというものは各家庭を通じて必ずしも一定しているものではない。八海部落と雖も然りであろう。そのことは次の証拠によって明確である。証人加藤スミ子は「一月二四日頃にはだいたい私のあたりでは六時か六時半頃食べるが早川宅でもその頃ではないかと思うが私が夕方早川方を帰る頃には夕食をされるのを見たことは一度もないし、夕飯どきに早川方へ行ったこともないので分らない」と云い、証人新庄好夫は「私方の夕食は瓦の製造をして夕方の後仕舞があるから毎晩決ったような時間ではなく六時から七時頃の間と思う、早川方の食事は見たことも聞いたこともないのでわからない。私方では一、二月頃夕食は六時から六時半頃その日の仕事の後仕舞の都合によって一定しない。八海部落では家によって夕食時は一定していないと思う」と言っているのである。しかも、仮に八海部落の一般に判示のような夕食時刻の習慣があるとしても、各家庭によってその時刻より早めの場合も、おくれる場合もあるであろう。早川夫婦の場合は夕食について次のような特別な関係があったのではないかと思わしめる事情があるのである。すなわち記録によって確認できるのであるが、惣兵衛は当日法事に呼ばれ正午頃から午後二時頃までに昼食をとっていた事実があり、この事実からすれば惣兵衛らの夕食時刻はおのづから毎日の習慣よりもおくれたものと認めるのが相当であろう。また二四日午後六時半前後に惣兵衛宅に来客があったことが窺われるのであって、このことからも夕食の習慣が若干ずれたであろうことは容易に推測されるのである。また惣兵衛は当日前示法事に列席し法事の席上に出された料理の食べ残りや土産物を貰って帰りこれを帰宅后夫婦で食べたことも記録上明らかであるから、この事実からしても平素の夕食時刻がずれたこともたやすく推測し得られるのであり、更に惣兵衛は本件発生の日以前から風邪の為め病臥し、瓦製造業には従事せず、専ら療養に努めていたことをも記録上認められるのであるから、このことが惣兵衛らの夕食時刻に影響なしとはしないであろう。然るに原判決は叙上特別な事情には何ら考慮を払わず、まん然と早川夫婦は同日午後六時頃から七時頃までの間に夕食をとったものと推認するのが相当であり、むしろ六時近い頃に食事をなした公算が多いものと考えると断定しているのは速断と言うの外はない。況んや死亡時刻すなわち兇行時刻を屍体の胃部状況から知らんと欲するならば、夕食時刻も大事には違いないが、最終食事時刻が何どきであるかを確定することこそ最も肝腎な点であると思われるのであるが、原判決はその点に付いて何ら言及していない。早川夫婦の場合夕食後何物も食べなかったものと果して保障できるであろうか。早川ヒサ解剖の結果によるとその胃の内容物の間に密柑があったというのである。この事実など早川夫婦の夕食時刻のみによってその死亡時刻を知ることの如何に困難であるかを物語るものであろう。

以上を要約して考うるに、原判決の早川夫婦の夕食時刻に関する説示は、差戻判決の疑点とした点を解明せんとする意図に出でたものではあろうが、一方被告人らのアリバイの成立を肯定した結論に影響されて判断を誤まったものと思われるのである。

なお、当審としては原判決の言及している物的証拠の点、殊に兇行現場における戸板に刺し跡の沢山ある点や被告人の誰れかが犯行の帰途川に物を捨てたという点など言及すべき点が多々あるのを感ずるのであるが、上来説述し来った処により本事案における肝要な点における原判決の欠点は十分に指摘したものと考えられるので爾余の点には触れないこととする。

以上を大観して結論すると、原判決には叙上の諸点で審理不尽、理由不備の欠陥があり、この欠陥は延いて原判決を破棄するのでなければ著しく正義に反するものと認められる程の事実誤認を導き出しているものと考えるのである。

よって、刑訴四一一条一号、三号、四一三条本文に従い裁判官高木常七を除く、その余の全裁判官一致の意見で主文のとおり判決する。

裁判官高木常七の少数意見は、次のとおりである。

本件は、吉岡晃の単独犯行とみるか、阿藤周平ら本件各被告人と吉岡晃の五人共犯とみるか、極めて困難な事案である。このことは、本件差戻し判決前の一、二審判決、差戻しの裁判をした当審第三小法廷の判決及び差戻し判決後の原審判決が、真実探究のためにそれぞれ精根を尽したと思われるに拘らず、なおかつその観るところを異にし、あるいは五人の共犯といい、あるいは吉岡晃の単独犯行といい、あるいは、その何れともみえなくはないといい、帰一するところを知らない事実に徴しても明らかである。

むろん、審理に顕出されたかずかずの証拠の中には、阿藤周平ら五人の共犯と窺わしめるものなしとはしないが、また反対に、これを否定せしめるもの、たとえば、原判決に挙示する如き多数の反証のあることを否むことはできない。いわば、右とみれば右、左とみれば左、その何れとも容易に断定しがたいのが本件のもつ特質である。

かかる事案において、原審が、五人共犯を疑わしとするならば格別、あまりにも直截に、吉岡晃の単独犯行と割り切ってしまったかの感がある点に、いささか釈然とし得ないものがなくはないが、証拠の取捨判断及び事実の認定は、直接審理によって得べき心証に負うところが多く、しかも、それによって得た微妙な心証は、筆紙に尽して悉くこれを判決に現わし得ないのを常とするから、みずから事実の取調べをなさず、専ら書面審理によって事件の全貌を把握するしかない上告審としては、右判決の過程において明らかに経験則の違反ないし論理法則の違背があると認められないかぎり、それを尊重するのが相当である。

本件についてこれをみるのに、原審のした証拠の取捨判断及び事実認定は、挙示の証拠関係に照らして首肯し得ないではなく、その取捨判断及び認定の過程において、明らかに経験則ないし論理法則に違反するものがあるとも認められないから、職権を発動して刑訴四一一条を適用すべき事案ではなく、従って、本件上告は、棄却するのを相当と思料される。

(裁判長裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 入江俊郎 裁判官 高木常七)

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